〜今日のみことば〜
「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。」ルカによる福音書7章37-39節
一人の女性がイエス様のもとに近寄り、涙をもって主の足に香油を注ぎます。ここに、この女性の信仰の姿があります。
しかし、その人を見て「罪深い女なのに」と思う人たちがいました。罪深い者はイエス様に近づいてはならないのでしょうか。罪深い過去をもった人間は否定されるしか残された道がないのでしようか。また、「罪深い女なのに」と言った者たちは罪深くない者たちなのでしょうか。
聖書は「罪の赦し」を語ります。罪の赦しこそがキリストの愛そのものであり、罪の赦しこそがキリストの福音そのものなのです。十字架のイエス様によって与えられる「罪の赦し」を信じる者の群れこそが教会なのです。