〜今日のみことば〜
「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」ルカによる福音書6章6-11節
律法学者やファリサイ派の人々には、自分たちが寄り所としてきた律法があり、それに基づいた生活がありました。その律法や律法に基づく生活は、自分と神様との関係を問うものに留まらず、彼らはその秤をもって人をも見ていたようです。
今日の福音には、「訴える口実を見つけようとして」イエス様がなさることを見ていたことが記されています。ジ分達の考えるところに従ってイエス様のなさっていることの誤りや間違いを見つけようとしていたのです。そして、イエス様のなさっていることが自分の意に沿わないと「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」のです。聖書を通して示された信仰の姿は、このようなものではありません。イエス様が憐れみ深く手を伸ばされたように、私たちも神様の憐れみを分かち合う者として生きるのです。