〜今日のみことば〜
「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った。・・・そこで、イエスは言われた。『もし、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」マタイによる福音書12章1節以下
「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った。・・・そこで、イエスは言われた。『もし、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」マタイによる福音書12章1節以下
どうして信仰者が、信仰を振りかざして人を裁いたり、けなしたりしてしまうのでしょうか。主イエス様は「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかった」と仰せになりました。わたしたちも、知らず知らずのうちに、気付かないうちに、この日野ファリサイ派の人々のようになってはいないでしょうか。信仰は、主の憐れみの心にふれ、その心を自分の心として生きることです。信仰とは、神の憐れみを分かち合い、共に喜んで生きることなのです。