この詩編の著者は、苦難の中にあってなお「あなたこそ私の神」だと告白している。さらに今日の本文16節では「私にふさわしい時に、御手をもって、追い迫る者、敵の手から助け出してください。」と述べている。

 

 第一に、私がどんなに苦しい時を過ごしていても、それは神のご支配の中にあるという事と受け止めよう。私たちは、苦しみがやってきて、しかも誰もそれを理解してくれないとなると、神を求めようとしなくなる場合が多い。神を求めるという事は「神様、主よ」と言うことではなく、神の御心に沿って生きる、どこまでも神の御心を自分の生活の中にあてはめていくことなのである。

 

 17節にあるように「あなたの僕に御顔の光を注ぎ、慈しみ深く、わたしをお救いください。」と祈ろう。

 

 第二に、苦難の時に祈りを持って主を待ち望む信仰を覚えよう。『天路歴程』の著者であるジョン・バニヤンは「祈りは魂の盾であり、神に捧げるいけにえであり、サタンに向かう鞭である」と説明した。

 

 また20節で「御恵みはいかに豊かな事でしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え、人の子らの目の前で、あなたに身を寄せる人に、お与えになります。」と著者は言う。

 

 助けを求める祈りで絶望から賛美へと突然変化する事がよくある。賛美は通常、終わりの部分に来るが、この詩編で途中に繰り返される。詩人は苦難と賛美を切り離す事をせず、祈り求める事と神への感謝、訴えと信頼の表明を同時にしている。

 

 苦難の只中で神を信頼し続けるというこの信仰が、十字架上でイエスが「御手にわたしの霊をゆだねます」と語った背景にあったのであろう。

 

 第三に、神を畏れ、神にのみ頼る者が受ける祝福があることを覚えよう。21節で「御もとに彼らをかくまって人間の謀(はかりごと)から守ってくださいます。仮庵の中に隠し、争いを挑む舌を免れさせてくださいます。」と著者は告白している。神は人間が予測もしない時に祝福をくださる。その与えられる祝福は計り知れない程のものである。

 

 イザヤ40章31節「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」とあるように、主を待ち望む人は新たな力を得る。

 

(2017年5月7日夕拝説教)