イザヤ60章と61章はイスラエルの復興と繁栄について預言している。今日の本文の一節は、「起きよ、光を放て」という二つの命令形の言葉で始まる。この言葉を聞いている者は、座っているか、横になっている状態であるかと思われる。周りの状況は罪と破滅の象徴である「闇」が地をおおっている。しかしこの二つの命令形の言葉は力強いもので、神の霊が伴っていると考えられる。


 「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」これは驚くべき言葉である。「主の栄光」とは見えない神の輝かしい臨在と尊厳を示す。二節の、「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」とは、昔エジプトの全土に暗黒があったが、イスラエルの上には光があった事を思い出させる。(出エジプト記10:22-23)


 私たちにも闇の現実と神の言葉との間のずれがある。だから私たちはそのずれを、「けれども」とか「しかし」という言葉で埋める。自分の現実は暗くて悲しいが、しかし神の言葉だから信じようという「しかし」である。

 

 今、たといどのように暗くとも、やがて朝が来ると信じられる者にとって、その暗さは問題ではない。神はもはやご自分を隠してはおられない。これを信じていくことが、私たちが持つべき信仰である。


 私たちもその朝を来させてくださる神の約束を信じて、この暗い現実に処していこう。今、どのような状態に置かれようとも、ここで語られる神の言葉に生きていこう。
その栄光は新しい神の民を通して現れる。神の民は彼ら自身では輝くことはできないが、神ご自身の啓示を受けることにより全地に輝く。

 

 三節に、「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。」とある。この「光」とは私たちが待ち望んだ救いで、世の光である主キリストである。そして、この光を受けた者は月が日の光を受けて反射するように、この光を反射させるべきである。


 それゆえに一節で「起きよ、光を放て」とある。このメシヤの出現は敵には滅亡、神の民には救いとなる。だから落胆、病、失敗の席から起きて、キリストの光を受けて反射させて行くことを覚えよう。


(2017年4月2日夕拝説教)