神はアブラムに「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように」と言われた。これはアブラムが祝福を受ける資格や力があるのではなく、神の絶対的な主権による命令である。主なる神は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださるお方である。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださるお方である。

 

 人間は元来神に向って正しく生きていくべき存在であるのに、罪という言葉に「的を外す」という意味があるように、真の的である神以外のものに向って生きるところに不幸があるというのが、聖書のメッセージである。


 なんと幸いな者であるのか。そのような方は悪人の入れ知恵に耳を貸さない。悪人とは邪悪な人のことである。そのような者の特徴は心にある悪を持続的に行い、陰謀を企み、罠を掘る。幸いな者は罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と一緒に座らない。「破滅に先立つのは心の驕り、名誉に先立つのは謙遜」(箴言18:12)だと聖書は語る。


 祝福される者は、神がお望みになることを何でも喜んで実践し、いつもその教えを考えては、どうしたらもっと神に近づけるかと思いめぐらす。私たちも神の掟に従う時に祝福される者として生きる。「この律法の書をあなたの口から話すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」(ヨシュア1:8)このよう者は、「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように」(詩編19:15)と言う。


 その人は流れのほとりに植えられた木で、ときが巡り来れば実を結び、その葉は決して枯れず、することなすこと、繁栄をもたらす。


 ところが神に逆らう者はそうではない。まるで風に吹き飛ばされるもみ殻のようである。悪人は必ず滅び、正しい人は最後に勝つ。


 神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。まさに神の裁きの日には不安にかられる。その者は、信心深い人と肩を並べて立つことはできない。


 神は信心深い人の願いも成り行きも、すべて見守ってくださる。それに引き替え、不信心な者の行き着く先は滅びである。

 

(2017年1月8日夕拝説教)