今日の本文には赦し、望み、平和を持って終わる希望の預言が書かれている。1節では「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイザヤは告げる。征服された土地に住む者たちに希望を与える「大いなる光」とは、神による救済であり、その救いのしるしは新しい王の誕生で示される。

 

 2節の「あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように戦利品を分け合って楽しむように」とは、人間が自分の努力や力で喜ぶのではなく、神がして下さるゆえに神の前に喜ぶ事を言っている。

 

 3節の「ミディアンの日のように」とは、士師ギデオンがミディアン人を打ち負かした日の事である。その日の事は、士師記7章に出る話で、ギデオンがたった三百人の勇士によって、十三万人以上のミディアン人を打ち破ったという話である。それによって、それまで彼らにのしかかっていた重荷から解放された。それは神がミディアン人を打たれたのであって、決してイスラエルの人々がミディアン人に勝ったのではない。

 

 5節の「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」は、メシヤ到来の預言である。そのメシヤの姿は正に、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君である。

 

 その方は、ひとりのみどりごとしてお生まれになられ、そして、ひとりの男の子として、私たちに与えられる。これはイエス・キリストによって成就した。ここには「ひとりの男の子が、私たちに与えられる」とある。ここではこの方の神としての性質、神性が強調されているから、この方は生まれるのではなく、与えられる。ひとりの男の子が与えられる。

 

 6節の「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。」ように、神は絶えずダビデの王家からイスラエルの王が出ると約束した。万軍の主の熱意がこれを成し遂げるので、どんな状態の中にあっても望みを持って生きていくわけである。

 

(2016年12月4日夕拝説教)