ヤコブはルズと呼ばれていた地で一人寂しく石を枕に野宿をしていた時、夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

このような夢を見、その中で、神が彼と共にいまし、彼を祝福して下さるという約束を聞いた。主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(13~15節)

彼はその時、はじめて、そこに神が共にいて下さる事を知った。そこが神の家(ベテル)、天の門だと分かった。
しかしヤコブにとって天涯孤独のルズの野は決して天の門、神の家とは思われなかったように、私たちにとっても、神の言葉は決してたやすく受け入れることのできるものではない。語りかけられた時には、ああそうかと思われても、一度この世の現実に戻って生きる時、それは一つの言葉になってしまうのではなかろうか。

ヤコブにとって朝は夢のさめやらぬ時であった。彼は起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。信仰が芽生え、後戻りしないように、素早く歯止めをかけたのである。私たちの信仰生活においてこれが大切である。

主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた(ルカ9:62)。また主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われると、「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った」(マルコ1:17-18)。

夢から目覚めた後、何よりも大切な事は「すぐに」という事である。これはいかなる感動にもまさる事である。夢から目覚めた朝は私たちにとって御言葉への従順をあらわす時であり、記念すべき時である。

(2016年6月5日夕拝説教)