創世記一二章以降には、神様から召しを受け、主の御言葉に従って生きるアブラムの姿が記されます。このアブラムの生涯を、聖書は「主はアブラムに言われた」(一二・一)との御言葉をもって語り始めます。「主はアブラムに言われた」これがアブラムの歩みの始まりなのです。ここに聖書の基本的な信仰の姿が示されています。
    「主は――言われた」とは、聖書に示された主なる神様は、自らのご意志によって人間にお語りになる神様であるということを示しています。そして、この神様の御言葉がアブラムの生涯の歩みを造り出していったのです。
    
    聖書の中で最初に、主なる神様が「言われた」と記されているのは創世記一章三節です。「神は言われた。光あれ、こうして光があった」(三節)。また、「神は言われた、われわれにかたどり、我々に似せて人を造ろう」(二六節)ともあります。
    ここに、神様の御言葉がどれほど大きな創造的な力を持っているかということが示されています。神様の御言葉によって、わたしたちの生きる世界が造り出され、喜ぶべき、素晴らしい存在としてのわたしたち一人ひとりが造り出されていくのです。
    
    しかし、アブラムに語られた御言葉は、ただ自動的にアブラムの将来を決定づけたのではありません。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(一二・四)のです。
    神様はアブラムにお語りになり、アブラムはその御言葉が自分に対する神様の呼びかけであることを信じ、受け止めて、その御言葉に従って生きたのです。ここに、アブラムの生涯がわたしたちに証している信仰の姿があります。
    
    今日に生かされているわたしたちも、この時のアブラムと同じように、日曜日の礼拝で神様の御言葉を聴き、その御言葉に応えて生きるようにと招かれた者です。
    信仰とは、自分を基準にして神様を判断していくことではありません。信仰は、わたしたちに語り掛けておられる「神様の御言葉」を中心にして、わたしたちが生きていくことです。御言葉を聴きつつ、神様のご計画によって備えられた人生を歩み出していくことなのです。そこに祝福された幸いな生き方があることを、聖書は証しているのです。


2019年1月6日説教より