神の民イスラエルがバビロン捕囚から解放され、神殿の再建をなしおえてしばらくの時が経た頃、この御言葉は語られました。これ以上の捧げものをしなくても立派な神殿があり、特段に信仰の心を引き締めざるを得ないような出来事も起こらない。このような中でイスラエルの信仰の熱は冷め、信仰生活が惰性的で力の無いものになってしまいます。そして神の民の信仰は、神様への畏れや尊敬の心を失っていったのです。


    このような時代、マラキ書の御言葉は、もう一度信仰を見つめなおし、主なる神様を見つめなおして生きるようにと促しています。
    


    マラキ書一章には、汚れたパンや、傷ついた動物、病気の動物を捧げものとする人々の姿が指摘されます。また更に大きな問題は、真剣に神様に向き合うことをしなくなったとき、「我々はどのようにしてあなたを汚しましたか」と、自分の信仰の問題に気づかなくなったことであります。
    


    なぜ、このようなことが起こっていったのでしょうか。それは、神様を畏れ、真剣に御言葉に向き合って生きる事をしなくなったとき、信仰の判断基準が自分自身になってしまったからです。


    わたしたちの生き方の中心が、主なる神様で無くなっていくとき、わたしたちの信仰生活でも同じことがおこります。礼拝も、教会生活も、捧げものも、すべて自分を基準にして行うようになります。そうすると、捧げ物の目安を考えたり、礼拝出席の目安を考えたりするようになります。その時わたしたちの信仰は、すでに喜びでも、力に満ちたものでもなくなってしまっているのです。
    


    喜びと希望に満ちた歩みは、どこにあるのでしょうか。それは主なる神様に真心をもって向き合い、御言葉を通し、礼拝を通して、その愛と恵みの御心をしっかりと受け止めることによってはじめて与えられるのです。


    主の御言葉は、わたしたちに形式的な応答を求めているのでも、ノルマを課しているのでもありません。わたしたちが神様の愛を受けて、慰めと喜びに満ちた生涯を歩むことを求めているのです。その根底に、神様に真実に向き合うわたしたちの信仰があるのです。
    
    
2018年9月30日 説教より