一人の目の見えない人の姿を見た弟子たちは、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と問います。

 

弟子たちは、人生の苦しみや悲惨の背後にある、原因を問い、どんな悪いことをしたのか、誰が罪を犯したのかと問うのです。残酷な問いです。

 

しかし、この問いは時として、わたしたち自身の内側に生じる問いでもあります。人生の不幸、苦しみや病といった容易に解決できない問題の中で、わたしたち自身が、過去の罪や問題によって、一層その苦しみを深くするという経験をすることがあるからです。ここで聖書が見つめている人間の姿は、過去によって人間を裁き、結論しようとするネガティブな人間の姿です。

 

 

このような人間の姿に対して、主イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と仰せになりました。

 

弟子たち、また人々の思いは、苦しみの要因を探ることへと向かっていました。過去の問題、間違い、罪を見ています。しかし主イエス様は、「神の業がこの人に現れる」と宣言されたのです。その人の過去をその人の人生の結論とはなさらなかったのです。

 

この人には罪が無いということを言われたのではありません。主イエス様は、わたしたちの過去がたとえどうあったとしても、どのような罪や失敗、問題や痛みを抱えていたとしても、それをもってわたしたちの人生の結論とはなさらないお方なのです。

 

主は、わたしたちの人生の今この時、そしてこれからを、救い力によってまったく新しい恵みの生涯、救いの人生へと造り変えてくださる方であるということを、今日の福音の言葉は告げているのです。

 

ですから、わたしたちは「後ろ向き」に人を裁き、また自分を裁くことをやめなければなりません。なぜなら、神様は、わたしたちがどんな過去をもっていようとも、その人を救うという御業をやめてしまうようなお方ではないからです。主は、いま確かにあなたを愛し、あなたのために御業をなしておられるのですから。

 

 

(2018年7月15日・主日礼拝説教より)