今日の聖書個所は「マリアの賛歌」と呼ばれる。これはラテン語訳の冒頭の言葉をとって「マグニフィカト」とも呼ばれている。その内容は、旧約聖書サムエル記上2章1~10節のハンナの祈りと似ている。


 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえる。」このように神をあがめることがわたしたちの信仰である。わたしたちの信仰の基 盤は、わたしのような者を神が目を留めてくださったということを知るところにある。


 今日の51~53節にあるこの幸いはマリアだけではなく、身分の低い人々すべてに及ぶ(サム上2:7~8参照)。権力ある者と身分の低い者、富める者と飢えた人々の、神による逆転の思想は主イエスの教えを通して語られている。


 では、この卑しい女をさえ心に掛けてくださった主とはどのようなことをなさったのかを、今一度確かめて行こう。

 

 

第一に、神は思い上がる者を打ち散らす(51節)

 

 これは道徳的な導きである。人がキリストの教えに則して生きようとするなら、高慢はその仮面の深いところまで引き剥がされてしまうからである。ときには、高慢な者が強烈な光に照らされて自ら恥じるようなことも起こる。

 

第二に、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げる(52節)。

 

 これは社会的な導きである。キリスト教は、この世のレッテルや地位に終わりを宣告する。どんな人間でも役に立たないなどと言ってはならない。主イエスがそのような人のためにも死なれたのだから、ということを理解するなら、もはやつまらない人間などと言うことは不可能なのである。

 

第三に、飢えた人は良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される(53節)。

 

 これは経済的な導きである。この世は貧富の格差がいつまでも続いていく社会である。しかしこのマリアの賛歌に現れる主は飢え渇いた者を満ち足らせて下さる。

 

 

 すべての人々は平等であるという、均衡を保つ調和ある社会を作り出していく恵みの教えがここにある。このような神の恵みは、今までの自分の生活を続けながら受けることはできないのである。


 主イエスが生まれたとき、ヘロデ王が不安になったのも、新しい王が生まれると古い王が追放されることになるからである。

 

(2017年12月10日朝拝説教)