「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10:17)。神の言葉を聞いてそれを望ましく思い、信仰を告白すると心に保証が与えられる。

 

 そしてまだ目に見えていないその事を確信できる。だが御言葉を聞いても信じないなら何も分からない。自分のような卑しい者に主が語りかけていて下さるのだと感謝して御言葉を聞き、信じようとすれば確信が与えられる。

 


一. 信仰は望んでいる事柄を確信する。

 

 人は多くのものを望むが、それが実際に手に入るとは思っていない。誰かにそうしてやると言われても現実に手に入れるまでは不安に思うものである。しかし、信仰があれば、主によって与えられると約束され、その実現を待ち望んでいる事柄を、すでに握っているかのように行動できる。

 

 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発した」(11:8)。そのような信仰の歩みが、その信じることの実現をもたらすのである。

 


二. 信仰は見えない事実を確認する。

 

 主は見えない事実を確認しようとする信仰に生きる者に「その信仰のとおりになるように」と云ってくださる。信仰を実現させてくださるという主の御言葉を信頼する人を、主は喜ばれる。


 人間どうしでも、自分を信頼してくれる者を人は喜んで受け入れる。自分に対して不信感をもってくる者はなかなか受け入れることはできない。そのように、信仰がなければ、神に喜ばれることはできない。「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならない」(11:6)のである。

 


三.信仰とは神の言葉を信ずる事である。

 

 信仰によって私たちは神を認識する事ができる。そしてこの世界が神の言葉によって創造されたことが分かる。「見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かる」(11:3)。


 純度百パーセントの信仰によって、信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる(マタイ21:22)。創世記ではアベル、エノク、ノアの信仰による歩みとアブラハムの信仰を語る。彼らはみな真の故郷、神の都を望み見て歩み、神はそれを彼らのために用意された。

 

(2017年11月5日夕拝説教)