主イエスが強調される根本精神は愛である。その愛は世のものとは違う。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」。これはイエスの新しい律法、道徳律であるというふうに言われている。

 


一. 敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

 

 敵を愛していく事は、なかなかできない事である。私にとっての敵をも神が愛しておられ、その人の為にもイエスを十字架につける程に、神は愛されているという事実に立つ時、私たちは初めて敵を愛していく事ができる。

 

 イエスが私のために死んでくださったように、敵のためにも死んでくださった事を知る時、敵に対してさえその幸福を願うようになる。その時に我々は真に神の子となるであろう。それでどんな人に対しても仕え、愛していかなければならないという根拠を得る。幸福の論理からは、真の平和はやってこない。私たちはそれを超えて愛の論理に変わっていかなければならない。

 


二. 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

 

 これは黄金律と呼ばれるものである。イエスは自分にして欲しいと思う事を他者にもせよ、という黄金律を我々に与えられた。この世での愛は自己を本位とし、自己に好意を寄せ、利益を与えるものに対する思いである。しかし主イエスがここで言われているのはその反対で、キリスト教倫理は積極的である。自分でつかもうとせず、神から頂く者になるのだと言われる。

 


三. あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

 

 キリスト者の人格は憐れみである。真の神の子は、敵を愛し、寛大で、他人を憐れむ人である。人の目にあるちりを除こうとする前に、まず自分の目にある梁を除くべき事、御言葉を聞くだけでなく、聞いて実行する事、その大切さを思う憐れみ深い者は幸いである。

 

 人に善い事をし、何も当てにしないで貸すならば、たくさんの報いがある。神は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い方である。

 

(2017年9月3日夕拝説教)