今日の本文で我々は、弟子を選ぶ主イエスに出会う。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(12節)。それから主イエスは弟子たちの中から12人を選んで使徒という名前をお与えになり、彼らと共に群衆の許に出て行かれた。主イエスが12人の弟子たちを選び、彼らを使徒とされた理由を考えてみたい。

 

 

一.イエスが彼らを選んだのは、自分と一緒におらせるためであった。

 

 マルコ福音書3章14節によれば、主イエスは彼らを自分の友となるように選んだ。イエスが人間的な友情を必要としたことは、おどろくべきことである。これはまさしくキリスト教信仰の真髄である。

 

 

二.主イエスは使徒たちを弟子たちの中から選んだのである。

 

 弟子と使徒とどう違うのか。弟子というのは、師匠・親方の方に向いて、師の言葉を聴き、師のする事を見て、それをまねし、倣い覚えて行くのが弟子である。使徒というのは、“遣わされた者”“代理人”として、師匠・親方の方を向くのではなく、師と同じ方を向いて、師から受け継いだものを生きて伝えて行くのが使徒だという。

 

 アポストロス(使徒)というギリシャ語は、派遣される者という意味である。これは使節、あるいは大使の意に用いられる。したがって使徒たちは人々に対して主イエスの大使として選ばれたのである。キリスト者は、その言葉においてのみならず、その生活と行動においても、キリストの大使として派遣された者にほかならない。

 

 

三.神の主権によって奇妙に選ばれたのである。

 

 マタイは徴税人であった。あの当時には自分の国を裏切った売国奴である。またシモンも熱心党の一員であり、熱心党員は裏切り者とローマ人をことごとく殺害することを誓った人々であった。このようなマタイとシモンがイエスの使徒団という小さい集団の中で平和に過ごせたのは、まさにキリストの奇跡の最たるものである。

 

 本当のキリスト者の集まりとは、全く異なった性格やタイプの者が共存しうる場である。共に生きる、という問題を解決できるのはただキリストだけなのである。全く対立する人々が結ばれる接点はここにある。なぜならどちらもキリストを愛しているからである。キリストを愛する者はお互いを愛しうるはずである。

 

(2017年8月6日夕拝説教)